
| 明治39年(1906)8月9日に棟上された、日本に現存する最古の領事館建築物。 設計者は、英国人技師のウィリアム・コーワンで、翌年に設計された旧長崎英国領事館の設計も担当した。 |
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下関英国領事館は、明治34年(1901)6月に開設され、F.W.W.ブレイフェアが初代領事として着任した。この建物は、3代目領事
E.A.グリフィスの在任中に建設されたもの。
昭和16年(1941) 第2次世界大戦の開戦により領事館が閉鎖されるまで、8人の領事が着任した。 |
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| 終戦後は、市内の遺跡から発掘された遺物などを展示する下関考古館として使われ、現在本館は、内部の公開と市民ギャラリー(月曜日休館)として、附属屋は喫茶室「異人館」として使われている。 |
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【旧下関英国領事館 概要】 ● 建築概要:主屋/煉瓦造総2階建、桟瓦葺、延床面積 308.244u 附属屋/煉瓦造平屋建、切妻造及び瓦葺、延床面積
77.61u
JR下関駅からバス7分「唐戸」下車すぐ
9:00〜17:00 夜間ライトアップ:日没 〜 23:00 |
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執務室
| 下関市民の心の安らぎであり、誇りでもある「旧英国領事館」。平成11年5月に国の重要文化財の指定を受けた。下関市内の国指定文化財(建築物)は、国宝である功山寺仏殿、住吉神社本殿、重要文化財で毛利元就が寄進した住吉神社拝殿に次いで4件目の指定となった。 |
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| 明治後半、時の駐日英国大使アーネスト・サトウは、成長著しい西日本における外交・経済・交通の拠点である下関に英国領事館を設置することを本国へ具申。明治34年(1901)9月、英国領事館が下関に設置されました |
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| その5年後の明治39年(1906)、領事業務の拡大に伴い、領事館が新たに建設された。これが現在の建物で、現存最古の領事館建築物であることに加え、明治期の外交関連施設の典型を示すものとして歴史的価値が極めて高く、国際都市下関を象徴する建造物です。赤煉瓦に包まれた建物は、昭和16年(1941)まで使用され、領事室や領事の居室などに使用された主屋と、使用人室や厨房などに使用された附属屋からなっており、設計者は英国工務局上海事務所技師長のウィリアム・コーワンと推定されている。 |
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 領事室
| 下関レトロ建築群の中でも赤煉瓦の姿が美しい建物だ。明治時代、下関での領事館の必要性を説いたアーネスト・サトウが英国首相に具申、1906年(明治39年)完成した。 |
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現在、主屋は市民ギャラリーとして、附属屋は喫茶室「異人館」として親しまれている。
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| アーネスト・メイソン・サトー(1843〜1929) |
| 1843年、ドイツ東部地方にルーツを持つソルブ系スウェーデン人を父、イギリス人を母(旧姓、メイソン)としてロンドンで生まれた。1861年イギリス外務省に入省、通訳見習として清国に赴き、1862年9月、英国駐日公使館の通訳見習として来日した。その直後の9月14日、生麦事件が勃発した。当時、駐日総領事ラザフォード・オールコックは一時帰国していた。1863年には薩英戦争の現場に立会い、1864年には四国艦隊下関砲撃事件にも立ち会った。後に正規の通訳官及び書記官に昇進。駐日公使ハリー・パークス(在任、1865年-1882年)の下で活躍した。1883年まで日本に滞在した。1884年-1887年、シャム駐在総領事代理、1889年-1893年ウルグアイ駐在領事、1893年-1895年、モロッコ駐在領事を経て、1895年7月28日、駐日特命全権公使として日本に戻った(1900年まで)。 |
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| 長州藩の命令を受けロンドン大学に留学した山口県生まれの5名。帰国後明日の日本を方向づけ、日本の近代化のためにおおいに尽くした。 |
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化粧鏡
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ベットルーム
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階段の踊場
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階段・3F(屋根裏)は危険のため上がるのは禁止
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マップ
4-1
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