角館武家屋敷散歩

石黒家


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 岩橋家も会津時代から芦名家の譜代家臣であった。役職は上位。1589年(天正17年)伊達政宗との摺上ヶ原の戦いで負けた後、主君・芦名盛重とともに常陸佐竹氏のもとへと落ち延びた。



  芦名盛重が秀吉から江戸崎を拝領した後、盛重の寵臣であった左源太といさかいを生じてこれを殺したため、岩崎弥左衛門父子は出奔、磐城の鳥居氏12万石に仕えた。



 やがてここでも問題を起こし江戸に逃れ、弥左衛門は出家の後、病死、2人の息子、久左衛門と左門は津軽へ向かい、津軽で武功をあげて300石を与えられるようになった。


岩橋家の概要





 母屋には来客用の表玄関と家族が使う質素な内玄関が設けられている。8畳の座敷には床の間が付き、西側と南側に縁側がついているので部屋が広く感じられる。全体的に上級武士としては質素な構えである。



 弥左衛門の孫・岩橋杢之助は1634年(寛永11年)、藩内の不正を糾弾しようとして目的を果たせず津軽を逃れ、かつての主君・芦名氏をたよって角館にやってきた。


来客用の表玄関

表玄関入口


家族が使う質素な内玄関



 杢之助が角館に来たとき、芦名義勝は1631年(寛永8年)に既に死亡、2代・盛俊の時代になっていた。杢之助は改名して又右衛門と名乗り、盛俊から番頭と寺社奉行の役目を与えられて100石を賜り、住居は表町上丁に与えられた。



 極めて上位の役職で迎えられたと言える。最後の奉公先としてかつての主家にたどりついた又右衛門は、1643年(寛永20年)盛俊が元服すると盛俊を伴って上京し、将軍・家光との謁見の際に、芦名家再興を願い出たと伝えられている。



 芦名家再興に情熱の全てをそそいだ又右衛門は、1651年(慶安4年)6月10日、盛俊が病死すると、翌日、後を追って殉死、享年42才。岩橋又右衛門の墓は芦名氏の菩提寺・天寧寺に建つ。



 盛俊の死後、後を継いだ千鶴丸も3才で夭折。芦名家は断絶し、岩橋家は石高を75石に減じられて佐竹北家の組下に配属され、住居を現在地の東勝楽丁に移された。



 しかし、江戸末期にかけて岩橋家は石高を86石にまでのばし、角館では上級武士の位置についていた



 1900年(明治33年)の大火では幸運にも被災を免れたので、屋敷は江戸時代の武家屋敷の趣を残している。


映画「たそがれ清兵衛」撮影場所



飲料用井戸









天然記念物 岩橋家のカシワ


 庭内には松・くり・かしわなどの樹木に加えて数本のシダレザクラが植えられ、座敷からも満開の折りには見事な景色が眺められる。


♪ 双葉 ♪



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