寿 立 庵
じゅ   りゅう  あん

足立美術館内の茶室

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2007年6月28日 作成

茶室「寿立庵」 床の間に即中斎の一行書がかけている。

 足立美術館創設者、足立全康氏(明治32年〜平成2年)の意思により作られた。茶室は、三畳台目・取次の間・水屋・六畳台目・和室八畳からなる。


和室八畳
 三畳台目の茶室。壁は聚楽塗りで、黒くなっているのは油を塗りこんでいるので、自然ににじんでくるそうです。他に六畳台目、八畳台目の部屋がある。



 お茶碗は島根の窯元、楽山焼。お菓子はここでしか販売されていない「日の出前」という菓子だ。



千利休の生涯
 和泉の国堺の商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。家業は納屋衆(倉庫業)。若年より茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。



 織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われ、のち豊臣秀吉に仕えた。1587年の北野大茶会を主管し、一時は秀吉の重い信任を受けた



 1585年10月の秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。また黄金の茶室の設計などを行う一方、草庵茶室の創出・楽茶碗の製作・竹の花入の使用をはじめるなど、わび茶の完成へと向かっていく。



 秀吉の聚楽城内に屋敷を構え聚楽第の築庭にも関わり、碌も三千石を賜わるなど、いわば茶人としての名声の絶頂にあった利休は、突然秀吉の勘気に触れ、堺に蟄居を命じられる。



 家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが、助命は適わず京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。七十歳であった。


庭園よりの「寿立庵」

 死後、利休の首は一条戻橋で梟首させられた。切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を狙う恐れから、軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられる。


瓦を実用と美的に使用




死罪の理由は定かではない。考えられる理由としては…
  
 大徳寺楼門(金毛閣)改修に当たって増上慢があったため(自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置し、その下を秀吉に通らせた)。
  • 安価の茶器類を高額で売り渡した(売僧(まいす)の行い)。
  • 天皇陵の石を勝手に持ち出し手水鉢や庭石などに使った。
  • 秀吉と茶道に対する考え方で対立した。
  • 秀吉が利休の娘を妻にと願ったが、利休は「娘のおかげで出世していると思われたくない。」と拒否し、秀吉はその事を深く恨んでいた。
  • 高麗文化を敬愛するあまり秀吉の朝鮮出征に反対した。…などの説がある。



和敬木清寂

 あるいは豊臣秀長死後の豊臣政権内の不安定さから来る利休に親しい大名と石田三成らとの政治闘争に巻き込まれたためなど、さまざまな説が立てられている。



 利休が秀吉のまつりごとに大きくかかわったことは、大友宗麟が大坂城を訪れた際豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易に」と耳打ちされたことでも伺える。こうした政務への深いかかわりが自刃の全ての理由とは断言できないものの、利休の失脚を望む勢力が存在したことは間違いないだろう。



 後継者としては、先妻宝心妙樹の子である嫡男千道安と、後妻宗恩の連れ子で娘婿でもある千少庵が有名であるが、この他に娘婿の万代屋宗安、千紹二の名前が挙げられる。道安と少庵は利休死罪とともに蟄居し、千家は一時取り潰しの状態であった。



 なお宗恩は袱紗を現在の形に定めるなど、自身茶の湯に精通し、利休のよい補佐役、理解者であったといわれる。茶頭としての後継は古田織部であったが、そのほかにも織田有楽斎、細川忠興ら多くの大名茶人がわび茶の道統を嗣いだ。



 利休死後数年を経て(文禄4年頃)徳川家康や前田利家の取りなしにより道安と少庵は赦免され、道安が堺の本家堺千家の家督を継いだが、早くに断絶した。このため少庵の興した分家である京千家の系統(三千家)のみが現在に伝わる。また薮内流家元藪内家と千家ともこの時期姻戚関係が生じる。



 

 三千家は利休の養子となった宗恩の連れ子千少庵の系譜であり、大徳寺の渇食であったその息子 千宗旦が還俗して家を再興し、現在の表千家・裏千家の地所である京都の本法寺前に屋敷を構えた。



 このとき宗旦は、秀吉から利休遺品の数寄道具長櫃3棹を賜ったという(指月集)。その次男宗守・三男宗左・四男宗室がそれぞれ独立して流派が分かれ、武者小路千家官休庵・表千家不審庵・裏千家今日庵となっている。




利休の茶の湯

 「わび茶」の完成者としての利休像は、『南方録』を初めとして後世の資料によって大きく演出されてきたものである。偽書である『南方録』では、新古今集(実際は新古今和歌集には見当たらない)の家隆の歌

「花をのみ まつらん人に やまざとの ゆきまの草の 春をみせばや」

を利休の茶の心髄としており、このような一見した華やかさを否定した質実な美として描かれている。



廊下
 しかしこれらの資料では精神論が強く強調されており、却って利休の茶の湯を不明確なものとする結果を招いてきた。同時代の茶の湯を知るには高弟である山上(薩摩屋)宗二による「山上宗二記」があり、第1級の資料とされている。この書によると、利休は60歳までは先人の茶を踏襲し61歳から(つまり本能寺の変の年から)ようやく独自の茶の湯を始めたという。これ以後、死までの10年間がわび茶の完成期だったということになる。


襖の引金が船のカイと帆(下)の形を用いて風情をかもし出している。

 実際の利休の茶の湯の重要な点とは、名物を尊ぶ既成の価値観を否定した点であり、一面では禁欲主義ともいえる。その代わりとして創作されたのが、楽茶碗や万代屋釜に代表される利休道具であり、造形的には装飾性の否定を特徴としている。名物を含めた唐物などに較べ、このような利休道具は決して高価なものではなかった点は重要である。



 利休は茶室の普請においても画期的な変革を行っている。草庵茶室の創出である。それまでは4畳半を最小としていた茶室に、庶民の間でしか行われていなかった3畳、2畳の茶室を採りいれ、躙り口(潜り)や下地窓、土壁、五(四)尺床などを工夫した。なかでも特筆されるべきは「窓」の採用である。師の紹まで茶室の採光は縁側に設けられた2枚引きあるいは4枚引きの障子による「一方光線」により行われていたが、利休は茶室を一旦土壁で囲いそこに必要に応じて窓を開けるという手法を取った。



 このことにより茶室内の光を自在に操り必要な場所を必要なだけ照らし、逆に暗くしたい場所は暗いままにするということが可能になった。後には天窓や風呂先窓なども工夫され一層自在な採光が可能となった。設計の自由度は飛躍的に増し、小間の空間は無限ともいえるバリエーションを獲得することとなった。


菓子・茶碗等が販売されている。

 利休の茶室に見られる近代的とも言える合理性と自由さは、単に数奇屋建築にとどまらず、現代に至るまで日本の建築に大きな影響を及ぼしてきた。また「露地」も利休の業績として忘れてはならない。




 それまでは単なる通路に過ぎなかった空間を、積極的な茶の空間、もてなしの空間とした。このことにより茶の湯ははじめて、客として訪れ共に茶を喫し退出するまでの全てを「一期一会」の充実した時間とする「総合芸術」として完成されたと言えるだろう。



 利休の名は、「利休箸」「利休鼠」「利休焼」「利休棚」など多くにその名を残し、茶道のみならず日本の伝統に大きな足跡を刻んでいる。

コメント 資料


資料
マップ

足立美術館
島根県安来市古川町320


♪風の舞♪

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