
| 森鴎外(本名・森林太郎)は文久2年(1862)1月19日石見国津和野に、津和野藩医 森静泰 峰子の長男としてこの家に生れ、明治5年(1872)に10歳で上京するまでここで過ごした。 |
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正 門
| 父親が典医であったことから、幼い頃から医学が比較的発展していたオランダ語やドイツ語を習らわされる。10歳にしてドイツ語習得のため進文学舎へ通学させられる。 |
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正面 旧宅
| 彼の生家の川向かいに、藩御典医だった西周(にしあまね)の実家があったため、西の所へ寄寓させてもらっている(鴎外の生家や西の生家は現在でも残っている)。 |
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森鴎外・詩碑
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この碑は、鴎外の扣鈕(ぼたん)から佐藤春夫の筆により建立された。
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森鴎外・概略
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| 鴎外は語学には極めて堪能で、ドイツ人学者にドイツ語で反駁をして打ち負かすほどまでに成長する。小説内でもかなりドイツ語やフランス語を多用している。 |
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先祖の写真
| 鴎外は文学・医学の分野に問わず論争が絶えない人物であった。文学においては事物や現象を客観的に描くべきだとする写実主義的な没理想を掲げる坪内逍遙と、理想や理念など主観的なものを描くべきだとする理想主義を掲げる鴎外は衝突する。 |
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| 医学において近代の西洋医学を旨とする鴎外は、和漢方医と激烈な論争を繰り広げたこともある。当時の和漢方医が7割以上を占めていた医学界で、ドイツ医学界のような学問において業績を上げた学者に不遇であり、日本の医学の進歩を妨げている、大卒の医者を増やすべきだ、などと批判する。 |
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| 松本良順など近代医学の始祖と呼ばれている長老などと6年ほど論争を続ける。しかし鴎外が寄稿する論文の多くはドイツなどの論文の広範な引用が多く、文章のレトリックや学問的な裏付けに拘るばかりで、実質的な臨床医学からはかけ離れたと言われ、当時の医学界からは最初から相手にされてなかったとも言われる。 |
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また鴎外の論争癖とも言うべき言いがかりが発端に起きている場合もある。坪内逍遥が『早稲田文学』にシェークスピアの評釈に関して加えた短い説明に対して、批判的な評を『しからみ草紙』に載せたことから論争が始まった。このようなことから、鴎外が関わってきた論争は「戦闘的評論」や「戦闘的啓蒙」などと評される。
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父、森静泰の使用した薬箱
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| また、そういう性格や気質からか漱石の「門下十傑」のように弟子を取ったりはせず、文壇上でも党派を作ったりするようなことはなく、孤立的であった。ドイツに留学していた鴎外は、日本の非社交的で閉鎖的な縛られた関係を好まず、西洋風の社交、サロンの雰囲気を好んでいたとされる。 |
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台 所
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当時の排水口
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小説家としてロマン主義から出発し『舞姫』『雁』などの小説を発表、やがて簡潔な文体で『阿部一族』、『山椒大夫』などの優れた歴史小説や『澀江抽齊』などの史伝を著した。夏目漱石と並び明治を代表する文豪としても知られる。『ファウスト』『即興詩人』などを翻訳した業績でも名高い。
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中 庭
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鴎外は軍籍に着いていながら活発な執筆活動をしていたため、小倉市(現・北九州市小倉北区)に左遷されたことがある。そのことが原因か、左遷から2年後の日露戦争の出征から帰ってきても、5年間あまり筆を執らなかったことがある。
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当時使用されていた井戸
| 1881年東京大学医学部を卒業。陸軍の軍医になり、ドイツに留学した。一時期、小倉に左遷されたものの、その後、陸軍軍医の頂点である陸軍軍医総監の地位まで上り詰めた。 |
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正門の裏側
| 脚気の伝染病説を主張し、のちに海軍軍医総長になるの高木兼寛と対立した。あくまで自説に固執し日露戦争でも兵食に麦飯を給するのを拒んだため、陸軍が25万人もの脚気患者を出し、3万名近い兵士の命を犠牲にしたことに責任があるとされる(同時期、高木の指示で兵に麦飯を与えていた海軍では脚気病者2名、死者はほとんどなかったと伝えられる)。「ロシアのどの将軍よりも多くの日本兵を殺した者」との批判すらある。 |
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