
| 厚狭毛利家(あさもうりけ)は、江戸時代の毛利氏の一門家老のひとつ。毛利元就の五男・毛利元秋を祖とし、のち元就の八男・末次元康が跡を継ぎ、関ヶ原の戦いの後長門厚狭(現在の山口県山陽小野田市)に10,500石を与えられたのが始まりである。 |
|
|

| 元康の跡を子・元宣が継ぎ、厚狭郡末益村(現・山陽小野田市)・厚東郡船木村(現・宇部市)を与えられ、末益村の郡に居館を構えたことにより厚狭毛利氏というようになった。 |
|
|

| 毛利 元秋(もうり もとあき、天文21年(1552年) - 天正13年5月3日(1585年5月31日))は安芸の戦国大名毛利元就の5男。母親は側室の三吉氏。少輔十郎。官途は刑部大輔。周防国国人椙杜隆康の養子となり、椙杜元秋と名乗る。しかし後に離縁し毛利姓に復姓している。 |
|
|

| 1570年に月山富田城主となり、与力として天野隆重を付けられている。この時に富田氏を名乗ったとも言われている。1585年に月山富田城にて病没する。遺領は同母弟の末次元康に受け継がれた。 |
|
|

|
初代・毛利元秋:2代・末次元康:3代・毛利元宣:4代・毛利元勝:5代・毛利就久:6代・毛利元連:7代・毛利就盈:8代・毛利就宣:9代・毛利房晁:10代・毛利元美。
|
|
|

東座敷一の間
| 厚狭毛利家は毛利元就の5男元秋を始祖とする毛利氏一門で、厚狭郡厚狭(山陽町)に知行地(8,300石余)をもっていたのでこのように呼ばれた。萩の屋敷は萩城大手門の南100mの要地に位置し、面積約15,500m2の広大なものであった。 |
|
|

重要文化財指定書展示
|

東座敷四の間
|

中座敷一の間
| 屋根は入母屋造り、本瓦葺き、南面廂構桟瓦葺きで、妻飾りは木連格子、南に向かって玄関および濡れ縁を設け、障子を立てて開放的に作られている。手法の特に目立つものはないが、建築年代がはっきりした点から貴重な建物といえる |
|
|

中座敷二の間:馬具と衣こう(萩市郷土博物館蔵)
| 5つに区画された内部には土間はなく、特に東の座敷は狭いながらも畳廊下を配した格調高い造りであることから、身分の高い者に対して用意された詰所であったと思われる。 |
|
|

中座敷三の間:鏡台と鏡(萩市郷土博物館蔵)
|

西座敷一の間:中の展示物は、他の展覧会へ出品中。
|

中間部屋
|

萩城模型
| 天文21年(1552年) - 天正13年5月3日(1585年5月31日))は安芸の戦国大名毛利元就の5男。母親は側室の三吉氏。少輔十郎。官途は刑部大輔。 |
|
|

長屋の棟木
| 周防国国人椙杜隆康の養子となり、椙杜元秋と名乗る。しかし後に離縁し毛利姓に復姓している。 |
|
|

西側よりの全景
| 1570年に月山富田城主となり、与力として天野隆重を付けられている。この時に富田氏を名乗ったとも言われている。 |
|
|

井戸端に咲くつわぶき。
| 1585年に月山富田城にて病没する。遺領は同母弟の末次元康に受け継がれた。 |
|
|