
明治8年(1875)田原村(現・福崎町)の儒者、松岡操の6男として生まれる。 (1875〜1962)享年87歳
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生 家
| 上京後、森鴎外と出会い、松浦萩坪に師事し、自然主義の文学青年と交流。「文学界」に新体詩を発表、斬新な詩作で仲間を刺激した。 |
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概 要
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| 「なぜに農民は貧なりや」という言葉に示されるように、社会構造に対する疑問から、文学への傾倒を絶ち、農政学を志した。 |
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東京帝国大学を卒業後、農商務省に入り、法制局参事官を経て貴族院書記官長となる。
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熟年の見学者が多くみうけられる
| 官僚の職に就くかたわら、『遠野物語』などの民俗学への道となる書を著していった。 |
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四畳半の座敷
| 床の額・左より国雄(柳田国雄)六男 ・ 泰蔵(井上通泰)三男 |
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裏 側
| 雑誌『郷土研究』の創刊は民俗学が独自の領域と主張を持つための基礎づくりとなった |
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| 大正8年(1919)官界を去り、翌年朝日新聞社の客員として全国を調査旅行し、『雪国の春』『秋風帖』『海南小記』の三部作が生まれる。 |
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| 昭和5年(1930)朝日新聞社を退職、ますます民俗学に専念、自宅で民間伝承論講義を行うようになる。 |
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おくどさん
| 『国史と民俗学』や雑誌『民間伝承』を創刊させるなど、昭和37年(1962)心臓衰弱で死去する日まで民俗学に心血を注ぎ、研究し続けた。(享年87歳) |
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| 自分の家は日本一小さい家だと「故郷70年」という本に書いているように、四間のこじんまりとした家だ。 |
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小さい四間の部屋(4.5畳・4.5畳・3畳・3畳)
| 少年時代の國男はいつもお母さんのお尻にくっついていて、遠くまで行くなどの冒険はできなかった。 |
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碾き臼
| 当時、それぞれの部落にはガキ大将の子がいて、他部落の子が自分らの縄張りにやってくると、仲間をひきつれてけんかを売りに来たからだ。 |
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物置の窓
| そういう國男君だって、辻川の村の犬をつれて隣部落の犬とけんかをさせに行ったこともある。でも、いくらおもしろそうでも遠い山つきの部落まで行くことはできなかった。 |
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炊事場の窓と木の排水・下に瓶が埋けてある
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國男のすむ辻川は、福崎地方の中心で町がかったところになっていたが、あいにく山と言えば鎮守の鈴ノ森神社の裏に浅い松林の丘があるだけでキツネもイノシシもすんでいなかった。
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| 鈴ノ森の丘はつつじが美しく、ごちそうを持参して家族での山遊びをする場所でしたし、福崎地方をとりまく山なみが見渡せるが、その山々も当時は草山で黒く樹木の茂ったところは少なかった。だから川にも土砂が流れ出して川底が上がり、ひでりには田の水がかれ、稲の収穫も少なくて農村でも食物が乏しかった。 |
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西 側
山がないかわりに辻川は、中国街道と生野街道とが交差して、姫路・津山・豊岡そして大阪など各地から新しいニュースが旅人、行商人などによって運ばれてきた。
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庭の茸
| マツタケは出たが、それは子供が勝手に取ることはできないし、西に流れている市川で泳ぐことはできたが、夏の短い期間だけで流れが早く、たまに3、40センチのコイがとれたりすると二ケ月も近所の話題になるほど動物は少なかった。 |
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正面の建物は、餅麦麺の製造販売の館
| 後年柳田國男は、自分の故郷はごく平凡な風景だが、日本にも稀なよい土地だったと書いている。 |
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| 生家は記念館の西隣に移設・保存されており、昭和47年に兵庫県指定民俗文化財となった。 |
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顕彰会記念館
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文化勲章を受章した民俗学者柳田國男は福崎町名誉町民第1号でもあり、國男の生家である松岡家の兄弟(鼎、泰蔵、國男、静雄、輝夫)はそれぞれの道で大成し、共に顕彰するために記念館が作られた。
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「柳田國男・松岡家顕彰会記念館(財団法人)」
兵庫県神崎郡福崎町辻川 |
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| この建物は、明治19年(1886)、神東・神西郡役所として、神東郡西田原村辻川(いまの福崎町西田原辻川)に建設されたもの。建設費は当時の金額で2,029円14銭で、施工は姫路の中島林平があたった。明治29年(1896)には神崎郡役所と改称され、大正15年(1926)に廃止されるまで、郡役所として使用された。 |
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| ・ 少年時代をなつかしみ、ふるさとに残した一句 ・ |
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松かさ
| 干ばつの年には高い山頂で雨乞祭が行われ、夜は山に上っていくたいまつ行列がきれいに眺められたと、國男は後になって思い出を語っている。 |
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| 柳田国雄がよく訪れ蔵書を読みあさったと言う三木家の土蔵。 |
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柳田国雄生家の概要
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■松岡 鼎
儒者松岡操(約斉)の長男。万延元年生れ。はじめ師範学校に入り、郷里の小学校長となったが後に東京帝大で学び、医師となり千葉県布佐に住む。千葉県郡会議員、医師会長、布佐町長等となり、地方自治に大きく貢献した。昭和9年76歳で没。
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■松岡 静雄
松岡家の7男。明治11年生れ。海軍兵学校を首席で卒業。日露、日独両戦役に従軍。軍令部参謀、戦史編集委員長、外国駐在武官等になったが、海軍大佐で退官し、言語学者となり多くの業績を残した。著書に日本古語大辞典、蘭和辞典、太平洋民族誌等がある。昭和11年59歳で没。
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■井上 通泰
松岡操の3男、慶応2年出生。後に田原村吉田の医師井上碩平の養子となる。東京帝大に学び、眼科医となる。史学に造詣深く、歌人としても有名。宮中顧問官、貴族院議員、芸術院会員、御歌所寄人等に任ぜらる。万葉集新考、播磨国風土記新考等著書多数。昭和16年76才で没。
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■松岡 輝夫
松岡映丘(本名輝夫)明治14年松岡操の8男として出生。東京美術学校卒業後に母校の教授となる。大和絵の研鑚と発展に生涯をかけ、新興大和絵会、国画院を結成、画壇に大きな影響を与えた。帝国芸術院会員。昭和13年58歳で没。
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記念館資料
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